石踊達哉の日本画と
薩摩の先達の書画展
毎年恒例の石踊達哉による大作《紅白梅図屏風》《月秋草図屏風》の公開
2025.4.1(火)〜5.11(日)
石踊達哉 プロフィール
川辺高校を卒業、東京芸術大学大学院終了。パリにアトリエを構えた1988年頃、それまでのシュールな人物画から花鳥諷詠の世界にはいる。1992年から屏風絵を手懸ける。1998年瀬戸内寂聴訳「源氏物語」の装丁装幀画54帖を描く。また1999年「両洋の眼展」で河北倫明賞を受賞し、国内外で平成琳派の旗手と目される。2006年金閣寺の方丈広縁杉戸絵および客殿格天井画を制作する。

ストーリー
石踊達哉は1945年旧満州生まれ。東京芸術大学に入学するまでを南九州市で育つ。「鹿児島で育った人間は、日々色彩豊かに美しく変化する桜島を見ながら育っているため感覚が磨かれ、それだけでも色彩において有利だ」と海老原喜之助は語った。石踊もまた豊かな鹿児島の自然の中で育った。春夏秋冬の花々などのモチーフが頭の中に全て入っているため自在に描けると云う。古今東西、風土が如何に表現に直結するかという事実を改めて思い出す。 学生時代より、革新的な日本画を目指し、幻想的でシュールな女性像などで注目を集めていたが、1988年パリにアトリエを構えてからは、花鳥風月をテーマとした画風に転向、以降平成琳派の旗手として精力的に作品を発表し国内外で高い評価を得る。「源氏物語」以降、「地」には木型を押し当て、連続模様による工芸的なマチエールを背景に施し、抽象的な空間処理と伝統に則った具象的な描写で現代感覚あふれる日本画の創出に成功している。日本古来の美意識とモチーフを伝統的な技法で追求しながら、抽象・具象・装飾性を大胆に取り入れ再構築した作品は、現代の大和絵を更新し続けている。
本展では、江戸時代から現代まで、激動の時代「書」「画」において活躍した郷土を代表する先達等の作品も展示いたします。 グローバル化が進む現代において、日本らしさ・鹿児島らしさとは何か、先人たちの書画を通して往時に思いを馳せ、見つめなおす機会になれば幸いです。
書 ー 中山楽童子(馬周洵) 高崎正風 鮫島白鶴 島津久光 島津忠重 松方正義 川上南溟 外
画 ー 木村探元 谷山龍瑞斎 南溟坂元徴 有山長太郎 松井黎光

石踊達哉
夜明けのアクロポリス 1985 20号
寺尾作次郎 幼女風俗文鉢 1964
木村探元斎守廣 1679-1767
探元斎守廣は鹿児島市平之町生まれ、13歳から薩摩の絵師小濱小慶に学ぶ。25歳の時、江戸に赴いて探幽守信の子狩野探信の門人となり、2年後に帰郷した。
1707年(宝永4年)鶴丸城造営に際しては、御対面所の天井絵や襖絵を描いた。
1734年(享保19年)上京して、近衛家と禁裏御所に絵を献上し、大貮法矯の称号を賜った。
探元は江戸時代の薩摩を代表する最高の絵師と称され、薩摩の褒め言葉に「みごっ探元」という方言が残っている。贋作も多い。




鮫島白鶴(1774~1859)
「無事是貴人」
1774年(安永2年)鮫島政芳の長子として生まれた。通称は吉左衛門、字は黄裳(こうしょう)、白鶴は雅号である。
幼少の頃、書を郷土の書家馬渡大八に学び、学問を好み、詩を作り、早くからなかなかの能書であったと言われている。若いころから頼山陽、田能村竹田、小田海僊(かいせん)等の文人たちと深く交流し、その書は各地で絶賛された。藩庁では御右筆を長く勤め、晩年には藩主島津斉彬に論語を定期的に講義する等学問の深さも覗える。
軸書 『無事是貴人』
(臨済義玄の「臨済録」より)
松井黎光(1900~1974)
「松と孔雀」
本名 松井貞夫は明治33年入来町麓上の名家に生まれ、幼少より絵を好む。
16歳の時、日本画家を志して上京した。1919年日本美術学院卒業後、荒木十畝に師事して忽ち頭角を現し、師に九州の天才画家と激賞された。中央美術社展、独画会展など諸展覧会に入選、受賞を重ね、画家としての地位を築く。
鹿児島の日本画の発展に尽力した。黎光は花鳥、風月、人物を得意とし、多くの秀作を遺している。

高崎正風(1836~1912)
「達磨図」
1836年高崎五郎右衛門温恭の長男として生まれた。通称は佐太郎、他に伊勢・豊暦・左京。雅号は宝義堂である。薩摩藩士、官僚、政治家、歌人。
