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初代長太郎と
四代長太郎 有山長佑

 骨董店にて、古薩摩を物色していた黒田清輝は店主から驚くべき話を聞いた。

実はその「白もん」は古薩摩ではなく、ある陶工が古薩摩を模して作っているという。

その陶工こそが、初代長太郎だった。

2025.5.17(土)〜7.13(日)→ 8.31(日)まで会期を延長

初代長太郎 (1871-1940) 初代長太郎は、30代当主、忠重の時代に島津家の御庭焼の絵師として勤めた後、谷山小松原に庶民的な黒薩摩の窯を創始した。 洋画家の黒田清輝にその独創性を認められて、大正9年に「長太郎焼」と命名する。 大正12年に東京で初めて個展を開き、名声を博した。 その作品は花瓶・置物・香炉・茶器・酒器等多岐に及び、また、油滴変・蛇蝎変・辰砂変・或いは、黒釉・緑釉等千種万様で独特な雅味がある。また「捻り物」においても才を発揮した。

四代長太郎(有山長佑)1935- 四代長太郎(長佑)は多摩美術大学で専攻した彫刻の知識や技術を元に、新しい創作活動を続けている。現代工芸展・日展等で数々の賞を受賞する。 昭和46年鹿児島県海外留学生に推薦され、ノルウェー産業工芸大学で陶芸を研修し、更に各地で工芸の研修に努めた。 ヨーロッパで学んだ経験が伝統工芸に安住しない積極的な創作の裏打ちになっている。初期のオブジェ的なものから、叩きや白薩摩の作品、伝統を守りながらの黒物の制作等に精力的に取り組んでいる。

初代展示風景IMG_1801.jpg

ストーリー

 鹿児島の焼き物といえば、いわゆる「白もん」と「黒もん」があります。  明治時代に白薩摩焼が外国で持てはやされていた頃、初代長太郎は技巧的になり過ぎた薩摩焼を本来の「土と炎の芸術」に戻そうと御庭焼の窯を離れ、各地の焼き物を研究して明治32年谷山小松原に窯を開きました。開窯当初、理想とする「黒もん」を追求するも生活は困窮を極め、錦手などの「白もん」を作り糊口をしのぎました。黒田清輝の激励を受けながら試行錯誤を重ね、ついに長太郎焼は完成します。古薩摩伝統の堅牢で雅味のあるその作品は、大正9年画聖黒田清輝により「長太郎焼」と命名され全国に広まりました。

 鹿児島県人が作った初めての窯元である黒薩摩の名窯「長太郎焼」は、鹿児島の風土が生み出したとも言えるでしょう。それから120年余り、初代長太郎とその系譜の陶工達によって受け継がれ、二代目雅夫は清泉寺長太郎窯、三代目流石は指宿長太郎窯を開窯し、一門の繁栄は目を見張るものがあります。お互いに切磋琢磨しながら、鹿児島で採取された鉄分の多い土を使い、長太郎焼独特の素朴で渋みのある作品を焼き続けています。

 そして長太郎焼本窯四代目・有山長祐は黒薩摩の伝統を受け継ぎながら、造形性に優れた白薩摩にも挑戦して陶芸界の高い評価を受け、現在も日展で活躍しています。  本展では、初代長太郎と四代長太郎に焦点を当て、両者がそれぞれの独自性を維持しながら「伝統の中の革新」へ挑んだ軌跡を辿ると伴に、「黒もん」の中に流れる歴史や伝統を感じ取っていただければ幸いです。

有山長太郎 谷山清見庵秋草蓋物 c20初_edited.jpg

初代長太郎
谷山清美庵秋草絵蓋物
20C初期 15x22cm

寺尾作次郎 幼女風俗文鉢 1964

初代長太郎
羅漢像
20C中期

初代長太郎羅漢像2.jpg
S初代長太郎雲龍窯変瓶掛.jpg

初代長太郎
谷山清美庵秋草絵蓋物
20C初期 15x22cm

四代長太郎(有山長佑)
ガーデンアクセサリー「程」
1970

ガーデンアクセサリー_MG_0030.png
叩き壺1985_MG_0002_edited.jpg

四代長太郎(有山長佑)
叩き壺
1985

四代長太郎(有山長佑)
白薩摩「染付耳付花器」
1987

初代長太郎
谷山清美庵秋草絵蓋物
20C初期 15x22cm

白薩摩染付耳付花器.jpg

寺尾作次郎 幼女風俗文鉢 1964

秋韻2019.png

四代長太郎(有山長佑)白薩摩「秋韻」2019

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