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美術館のなりたち

児玉美術館設立の動機を教えて下さい

 先ず美術館を作ることができたのは、経済力のない個人ですので、家内の力がかなり大きいと思います。
  私は昭和42年に福岡から帰ってきて谷山に整形外科病院を開業したのですが、家に帰ってみますと、神棚や納戸から古文書とか祖先の使った日用品とか、武具類がたくさん出てきました。しかしそれらの品は、年代によってあったりなかったりで、大変偏って残されていました。だから、今のうちになんとかしないと、もうなくなる、と思って整理を始めたわけです。
  昭和48年に一応、整理の目処がたったので、それらを収蔵する「児玉収蔵館」という、約20坪の耐震耐火建物を屋敷の中に建てて、郷土史に関心のある方々には開放していたのです。しかし、屋敷の中なものですから入りにくかったようでした。それでも時々は見えられる方もおりましたが。
  それらを整理していく過程で、祖先の人々の考え方とか、時には、こんな人ではなかったのだろうか、とか、姿形まで想像し、それが彷彿としてきて、祖先と対話する喜びに浸ることができたのです。
  そこで、私自身も、自分の書いたものとか、自分で収集した美術品とか、日常愛用した品を通じて、子孫と再び対話ができたらすばらしいことではないかと考えたわけです。と、いうわけで収集を行なっていったのですが、次第に収集する品数が増えてきますと、自分の家だけで私蔵しているよりも、市民の皆様にも見ていただいて、市民の方々とも美術品を通じて対話ができたら、と考えたことが美術館設立の契機だったのではないか、と思います。

収集は昔からずっと続けてこられたのですか

昭和48年までは、私の家に残されていた物の整理をしていました。その少し前の昭和46年頃から、ぼつぼつと私自身の収集を始めましたが、児玉収蔵館を建ててから、かなり収集の仕方が具体化してきたように思います。

収蔵品が海老原喜之助、大嵩禮造両画伯に集中していますが、どうしてですか

 それは、たまたま大嵩禮造さんと知り合ったためです。はっきりしないのですが、昭和47年に県美展のパーティの席で、偶然隣り合わせたのが最初のようです。
  それまで、大嵩さんの抽象的な絵は、いろいろな展覧会で見て知ってはいました。その印象は非常に自分の気を引く絵だな、という感じを持っていました。たまたま私が二中、彼が甲南高校で同じ出身校ということもあったのでしょうが、だんだん親しくなってきました。
  大嵩さんの抽象的な絵しか見ていなかったので、具象的な絵も見せて下さいとお願いして、見せてもらったのですが、その絵が、抽象画の作品とまったく同じ雰囲気を持っていたわけです。私がそれまで知っていた経験では、抽象作家で具象的な絵を全然描けない人が多かったものですから、びっくりしました。この人は本物だと感じました。その時から大嵩さんの絵の収集が始まったのです。それと前後して海老原喜之助さんの絵の収集も始めたのですが、後になって海老原さんが大嵩さんの先生であったことを知りました。その点でもこの上ないパートナーを得たわけです。もちろんそれまでに、海老原さんの、サーカスを描いた油彩作品を持っていましたので、私自身、好きだったわけですが。
  それからの収集の仕方は、私の好きな作品を大嵩さんに、芸術的価値の高い作品かどうかを見てもらって決定するという、文字通り二人三脚でした。だから、変な作品は殆どないと自負しています。

美術館をこの場所に作られたのはどうしてですか。

この地は、私の家に約200年前から伝わっている土地です。自然が比較的良い状態で残されているので、この地が児玉家ゆかりの美術館に最も相応しいと思って、設立することにしました。
  私は15年来、この地に20町歩余りの杉桧の植林、竹林、梅林、栗林、楓林などの造園を行ない、道路を通して公園化し、今日に備えてきました。場所は鹿児島市下福元町野頭。国道225号線の山手の自然林の中にあります。美術館の建設にあたっては、自然を壊さないように、自然と調和してさらにこれを生かすように、充分に留意しました。

収蔵品の中心になっている海老原喜之助、大嵩禮造両画伯の絵の特徴について話してください。

かつて海老原喜之助が「俺に向こう傷はあっても、後ろ傷はないはずだ。日本の画壇の大家なんていったって、後ろ傷はあっても向こう傷のない連中ばかりじゃあないか」と言ったそうです。これは昭和8年に海老原さんがフランスから日本に帰ってきた時に、当時の画壇を評した言葉だったそうです。海老原さんと大嵩さんは体質的に少し違っていますし、絵の性質も違います。しかし、絵に立ち向かっていく真摯な態度と言いますか、後ろを見せない点は、大嵩さんは充分に教わっているのではないでしょうか。
  どうして私が大嵩さんの絵を好きなのかというと、体質的に合っているということがまず一番なんでしょうが、非常にクールで清潔感があって、緊張感の強い点が特徴だと思います。
  海老原さんの絵について言うと、色や形が大変力強く、画面に詩情のあることです。
  二人の共通点は、独創的で他人の真似を全くしないことと、もうひとつは造形でしょうね。結局、物を見てそのまま描くのではなく、自分の頭と心の中で昇華して形を作っていく点でしょう。

大嵩画伯とは私生活でも大変親しいそうですが、海老原喜之助画伯とは面識があったのですか。

 私が鹿児島に帰ってきたのは昭和42年で、海老原さんが亡くなったのが昭和45年ですから、もうフランスに行っておられて、全く面識はありません。後でわかったことですが、偶然にも昭和20年にフィリピンで戦死した私の父と海老原さんが、志布志中学の同級だったそうです。私が子供の頃、「自分と中学の同級で、気が強くてなかなかよい絵を描くのがいるんだよ」と父から聞いた記憶があります。吉井淳二さんも志布志中学の同級だったそうですが、おそらく海老原さんのことだったんだろうと、今は考えています。私の父は利久で、歯科医をしていました。

海老原美術館というのは、あるのですか。

いいえ、不思議なことですが、ありません。大きな良い絵はあの美術館に、この絵はこの美術館にという具合に、日本中のあちこちの美術館に散らばっています。

私立美術館は、鹿児島にいくつありますか。

 鹿児島市では、児玉美術館が初めての私立美術館です。県下では福山町の松下美術館、指宿市の岩崎美術館に次いで、第3番目に誕生しました。現在は長島美術館三宅美術館陽山美術館中村晋也美術館吉井淳二美術館があります。公立では黎明館鹿児島市立美術館があります。
  児玉美術館は館自体が緑豊かな自然に囲まれた美術館公園になっている上に、平川動物公園や清泉寺にも近く、絶好の社会見学コースとして、特別な発展が期待されています。

美術館の収蔵品の特徴を教えて下さい。

 児玉美術館の収蔵品には、ふたつの柱があります。
  ひとつの柱は、児玉家に伝わる古文書や美術品であり、郷士の生活の一面を偲ぶことができます。これは、歴史を尊重するという、この美術館の縦糸となっています。
  もうひとつの柱は、海老原さんや大嵩さんなど、現代の郷土作家の作品が中心になっていることです。
  大嵩さんを煩わして収集した作品群、それは先輩、友人、後進を大切にするという、この美術館の横糸になっています。
  この縦糸と横糸で織られた、鹿児島の郷土色豊かな美術館が児玉美術館です。

美術館に収蔵された絵画は、海老原喜之助、大嵩禮造両画伯の作品が中心になっていますが、今後そのレパートリーを増やす予定はありませんか。

 私は、最初から大嵩さんを通じて自分自身の生きざまを証明したいという気持ちで美術収集を始めたので、大嵩さんの収集は徹底的にします。それと、大嵩さんに影響を与えた作家、また、影響を受けた作家のものに限って、収集していこうと考えています。
  鹿児島には高名な画家がたくさんおられますので、レパートリーを拡げていけばいくらでも拡がります。しかし、私は自己主張をしたいものですから「あれもあります、これもあります」では主張になりませんので、収集は大嵩禮造とその師、友達、弟子のあたりで止めるつもりです。美術館に収蔵された作品を観て、私が何を考えていたのかを知って戴けたらと思っています。
  もちろん、世代が変われば、また新しい収集が始まるのでしょうが。

美術館が緑豊かな森の中に建てられて、森と共にあることには感心しましたが、それについてどんな風に考えておられますか。

 児玉美術館のキャッチフレーズは「樹々と語り、名画と語る緑のなかの美術館」です。
  先ず、美術館のあり方についての私の考え方ですが、私立美術館はひとつの思想を持って収集された美術品にふさわしい展示空間が与えられ、鑑賞する人との間に充分な対話ができることが基本であると思います。
  展示された美術品にふさわしく、室内、建物、周囲の環境等すべてが渾然一体となり、整備されなければならないと思います。
  私は、ワイドな美術館と言っているのですが、ただ建物の中で美術品を鑑賞するだけでなく、周囲の自然散策や林の中の思索を楽しみながら、美術品と対話していただきたいと思っています。

美術館の敷地の広さは、どのくらいありますか。

土地の広さは20町歩(約1940アール)ありますが、現在美術館の敷地として使用されているのは、そのうち整備のできている約10町歩です。その他の土地は整備でき次第、美術館に繰り入れていきたいと思っています。
  美術館の敷地を流れる小川に沿って、既に整備された遊歩道を登っていくと、桜島が眺められる栗林、杉桧林を過ぎて約500メートルの所に、亀ヶ尾の瀧と呼ばれる小さな滝があります。流水は冷たく、真夏でもひんやりとして汗が引きます。
  未整備の別な山道を約1000メートル登っていくと、昔から神聖な場所とされている標高約200メートルの天狗山に至ります。時として笛や法螺貝の音が聞こえ、村の子供達に天狗の棲む山として恐れられていた処ですが、頂上に石組みがしてあるのを見ると、修験者が修行でもしていたのでしょう。山頂からの眺望は絶景で川辺峠を眼下に見て、遠く南薩の山並みが俯瞰されます。

美術館には階段がなくて、如何にもお医者さんが造られた建物らしいですね。

 はい、階段はまったくありません。児玉美術館の建物は、車椅子の方や、お年寄りの観覧にも支障のないように配慮されています。館内は段差がなく、上り下りはすべてスロープで、障害者用トイレも備わっています。

美術館の建物は周囲によく調和して、採光や空調等にも工夫が凝らされているようですが、どんなことに注意されましたか。

 設計は比良五男氏、施工は清水建設株式会社です。
  私は設計士さんに次のことをお願いしました。
  1 自然を壊さない
  2 自然を利用する
  3 感動を与える
  4 一貫性がある
  5 障害者に支障がない
  私は、美術館はあくまで美術品を展示するための空間であるので、美術品と一貫性がなければならないと考えております。設計に先立って、設計士さんに館の主な収蔵品である大嵩さんのアトリエに足繁く訪問して、絵や人柄を理解してもらいました。このようにして白を基調に鋭角的で乾いた世界を終始追求している大嵩さんの絵に合うように、自然の緑の額縁のなかに直線的で唯一の人工的な白亜の簡素な建物ができたのです。自然の地形はそのまま残し、樹木の伐採は必要最小限に留め、人工的庭園は造りませんでした。
  自然採光については、館の中央部が硝子に囲まれた光庭とよばれる吹き抜けになっており、四面の大きな窓から降り注ぐ日光は磨り硝子、ブラインドと木製ルーバー(光避け)の三つで調節されて、柔らかい光が館内に満ちるよう設計されています。天気の良い日は、人工照明は殆ど必要ないほどです。
  自然換気については結露を防ぎ、換気を良くするために壁面とコンクリート壁の間に、小さな隙間を作ってあります。また、夏は館内の熱い空気が吹き抜けの上の窓から外へ、外の冷たい空気が吹き抜けの下の窓から館内に流れ込むように工夫されています。杉や桧林を通り抜ける風はさわやかで、真夏でも冷房はあまり必要ありません。
  中央の光庭に降る雪や雨を、館内から見ることができます。また、絵の展示された壁面にある大きなふたつの窓から見える竹林には、日本画のような世界が開けます。自然と一体になった美術館そのものです。
  美術館で使用する水は、地下80mから汲み上げた伏流水と市の水道の併用で賄っています。

入口から児玉美術館に至る約200米ほどのアプローチ、梅林と孟宗の竹林がいかにも鹿児島らしい意味をもっているように思います。竹林の道を歩いて行くうちに美術品を見る心構えといいますか、何か美術品に対する期待感みたなものがうまれてくるようですね。。

 そんなに感じて戴けたら大変嬉しく思います。
  日本で初めて孟宗竹が植林されたのは磯の島津御殿といわれていますが、この竹林もまた江戸時代の植林でしょう。竹林は落葉の春、竹裏の風の涼しい夏、木漏れ日に秋、笹雪の冬など四季を通じて美しいものですが、中でも竹の秋にあたる春、そよ風に雪のように散る竹の葉、地面に降り積もった葉が木漏れ日に黄金のように輝くさまは筆舌に盡くしがたい素晴らしさです。
  私はこの季節になると次の詩を思い出します。
「竹影金瑣砕、泉音玉淙浄(竹の落葉は黄金を砕いたようにきらきらと輝き、泉は玉を転がすようになさわやかな音をたてて流れている)」9世紀初頭の中国の詩人孟郊が韓愈らと長安城南に遊んだ時に、城南聯句の発句として詠んだものですが、恐らく同じ風景だったのではないでしょうか。

美術館を建てられた土地に、いくつかの民話があるそうですね

 ふたつの言い伝えが残されております。ひとつは、この地は野頭亀ヶ尾と呼ばれています。美術館の竹林の入口に、小さな古墳のように盛り土された、楕円形の土地があって、中央に立派な山神の祠が建てられています。
村の人達は毎年旧歴の11月28日に山神の祭礼を取り行い、安全を祈って山仕事に入ることにしています。山神の境内は神聖で、かって土地の造成のため境内の一部を崩しましたところ、夜になると山神が大声で騒がれるので、人々は大いに恐れてその計画を中止したそうです。
  昔から山神さまに造林緑化、無病息災、旅立安全を祈願すると霊験あらたかだと言われています。
  この山神は文政11年11月28日(1828年)に谷山郷年寄児玉喜三郎次利金(号楽山)と子の児玉喜十郎利用が野頭の守り神として寄進したと祠に記してあります。
もうひとつは美術館の前山の山道を約1000米登って行くと、昔から神聖なところとされている標高約200米の天狗山に至ります。時として笛や法螺貝の音が聞こえ、村の子供達は天狗の住む山として恐れました。
  子供が悪さをしたり、泣いたりすると、親は「天狗さあ(様)が、やっ来やっど(見えるぞ)」と叱り、すると子供達は悪さをやめ、泣きやんだそうです。
  いくつかの言い伝えのあること自体、この地に古い歴史のあることを物語っているでしょう。

今後の美術館運営はどうなされますか

 収蔵美術品の常設展示は年に4回程度の展示替えを行ない、その間に年2回くらいの企画展を挟みたいと思います。
  夏休みには子供達の虫探しや森林浴とスケッチ大会を行なったり、美術品の野外展示を企画したりして、広大な自然林を最大限に生かしながら、市民の皆さんに喜んでいただけるような、内容のある美術館運営を行なうつもりです

最後に美術館の目指している方向を教えてください

美術館の目指している最大のものは、家族みんなで楽しめる美術館公園の完成です。私はある雑誌に児玉美術館の5つの夢を、次のように書いたことがあります。

 1 美術館のワイド化
  2 美術館のオープン化
  3 美術館の経済的基盤の確立
  4 美術館の現代美術への提言
  5 芸術村の誕生

 この中でも、自然遊歩道を整備延長して、従来の、絵を見るだけの美術館から、自然散策を楽しめるようにする、植物と鳥や昆虫の生態系の勉強ができるような、四季折々の花の絶えない、木の葉で季節がわかるような環境作りをするなど、美術館のワイド化は着々と進んでいます。
  すでに整備された美術館の周辺では「樹々と語り、名画と語る緑の中の美術館」のキャッチフレーズの通りに、ある人は梅林の椅子に座って何かを思索したり、ある人は照葉樹木の木陰でフルートを吹いています。子供達は棒を持って竹林の坂を駆け廻り、あるグループは桜島の見える栗林の中で弁当を広げています。
  美術館も建物も鑑賞する人も、すべてを豊かな自然のなかに包み込むことができるなら、この上ない喜びです。

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