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1920年代のエコール・ド・パリの熱気を持ち続け、西欧的なエスプリと造形で戦後の日本画壇を牽引した海老原喜之助が今年生誕120周年を迎えます。弱冠18歳で渡仏し、藤田嗣治の薫陶を受けて、パリで鬼才を発揮し、アンファンテリブル(恐るべき子供)の異名を取りました。若き日の叙情美と、晩年における豪放で詩情豊かな作品群は、いかにも薩摩人らしい清澄な世界を展開しています。

藤田の天才的素描力に影響を受けた海老原の素描は、下絵というデッサンのイメージを凌駕する名品であり、海老原作品のエッセンスでもあります。今回は児玉美術館が所蔵する素描作品の中からセレクトした逸品と、リトグラフの全作品を展示します。

素描 人形使い€€1941 site.png

人形使い€€(1941) 素描・着彩

素描 着彩 騎馬€1954 site.png

騎馬(1954) 素描・着彩

素描 着彩 三面1967 site.png

三面€€(1967) 素描・着彩

版画 多色 考える人1954 site.png

考える人€€(1954) リトグラフ・紙

版画 多色 記念碑的象1954 site.png

記念碑的像€€(1954) リトグラフ・紙

版画 多色 雨の日1965 site.png

雨の日€€(1965) リトグラフ・紙

​海老原喜之助
KINOSUKE, Ebihara

1904-1970

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1904年    鹿児島市住吉町に生まれる
1917年(13歳) 県立志布志中学校に入学(同級生に吉井淳二画伯)
1919年(15歳) 油彩「お茶道具」などを描く
1922年(18歳) 中学校卒業を待たずに上京し吉井淳二と川畑画学校に通う
1923年(19歳) 渡欧して藤田嗣治の薫陶を受ける
1927年(23歳) パリのサロン・ド・エスカリエ第10回展に「群鳥」等14点を出品し、称賛される
1929年(25歳) 代名詞となる海老原ブルーの雪山連作が始まる 
1934年(30歳) 盛樹、義の2人の子供を連れて帰国。日動画廊で矢継ぎ早に小品群の個展を始める
1935年(31歳) 独立美術協会員に迎えられ、第5回独立展に「曲馬」を出品する
1936年(32歳) 独立秋季展に「人と馬」などを出品する
1945年(41歳) 熊本県人吉市に戦火を逃れて疎開する
1946年(42歳) 吉井淳二と南日本美術展を興し郷土の美術振興に尽力する
1950年(46歳) 第1回南日本文化賞を受賞する。熊本市内に転居し海老原美術研究所を開設する
1956年(52歳) 第24回独立展(創立25周年記念)に「天使堕ちる」を出品する
1959年(55歳) 南日本美術展に海外派遣美術留学制度を設け第1回留学生に大嵩禮造が選ばれ渡欧
1964年(60歳) 芸術選奨文部大臣賞を受賞
1965年(61歳) 夫人を伴って渡仏しリトグラフ「雨の日」「海浜の蝶」「洗馬」を制作する        
1967年(63歳) 永住を決意し渡仏する。藤田嗣治の病床に付き添う
1970年(66歳) パリにて客死し、坂元墓地に埋葬。デスマスクを野口彌太郎が描く
藤田が住んでいた海老原のアトリエのイーゼルには「絶筆サーカス」が置かれていた

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